築地大橋プロジェクト
機能性と美しさを兼ね備えた橋で
今の技術を未来へと伝える

橋梁の設計は大日本ダイヤコンサルタントの柱となる事業のひとつ。数多くの実績の中で代表的な事例が、東京都中央区の隅田川に架かる築地大橋だ。新時代の東京のシンボルとなる橋を架ける壮大なプロジェクトで、そこには設計やデザインを担った技術者たちの思いが詰まっている。

隅田川のシンボルとなる橋を架ける
 首都・東京を南北に縦断する隅田川。鉄道や自動車で川を渡る人々のために、全長23.5kmの短い河川ながら約30もの橋が架けられている。その中で最も新しく、最も下流にあるのが、大日本コンサルタント(当時)が設計に携わった築地大橋だ。
 この橋を通るのは東京都の環状第2号線。計画が定められたのは1993年のことで、当初は隅田川の地下にトンネルを通すことになっていた。しかし、経路上にある築地市場の豊洲への移転が決定したことから計画が変更され、橋梁を建設することになった。
 「河口の最も近くに架かる第一橋梁は、その河川のシンボルです」とプロジェクトの主担当を務めた設計の喜多亮輔は語る。ニューヨークのブルックリン橋などが代表例で、東京では勝鬨橋がその役割を担ってきた。1940年に竣工した日本最大級の跳開橋で、国の重要文化財にも指定されている。
 そのほか、隅田川に架かる橋では永代橋や清洲橋もその時代の先端技術が詰まった名橋である。これから架ける橋も、これらの橋と同様に時代を代表する橋梁にならなければならない。
「22世紀にも建設意志が伝わる橋」を目指して
 こうした背景から、このプロジェクトには東京都も並々ならぬ意気込みがあった。2004年には橋梁形式選定委員会が設置され、ふさわしい橋の姿について活発な議論がなされた。
 委員会で最初に定められたのが「22世紀にも建設意志が伝わる橋」というデザインコンセプトだった。勝鬨橋などの名橋を意識したコンセプトであることは言うまでもなく、建設後100年が経過してもこの時点の先端技術が人々に伝わるようにという思いが込められていた。
 当時若手で、事務局の一員として委員会に参加していた喜多は、その後の設計における困難を予感したという。「仕事を覚える中で、地方の小さな橋梁でも大変なのに大きな橋梁の設計ができるのだろうかという思いが芽生えていたんです。でも頼もしい仲間たちが社内外にいましたから、彼らとともに目の前の課題を一つ一つ解決させていくしかないと心を決めました」と当時の心境を語る。
 かくして、このコンセプトを具現化するための挑戦がスタートした。
シャープな形状で開放的な外観を実現
 まずは予備設計と呼ばれる段階で、橋梁の形式を決めなければならない。吊橋やトラス橋など実現可能な17の形式を橋梁形式選定委員会に提示し、技術面だけでなく機能性や隣接する勝鬨橋との景観的な調和なども考慮して検討が進められた。一次選定で7案、二次選定で3案に絞られ、そして当時の都知事の最終決定によって、3径間連続中路アーチ橋を建設することになった。
 隅田川には勝鬨橋や永代橋などのアーチ橋が架かっているが、それらとの決定的な違いは、築地大橋はアーチリブが外向きに開いていて、両側のアーチリブをつなぐ上横支材がないことだ。これは日本初の試みだった。
 その意図について、喜多はこう語る。「この橋は道路が6車線もあるので、上横支材を入れるとなると長くて大がかりになってしまいます。そこで、アーチリブを歩道側に傾けて鉛直支材で支えることにしました」
 ただ、日本に前例がなかったため、海外の雑誌を見ながら作図をするしかなく、学生時代に英語をもっと勉強しておけば良かったと後悔しました」と喜多は笑う。
 また、アーチリブの鋼材としてそれまで日本の橋梁ではほとんど用いられていなかった橋梁用高性能鋼材を採用し、強度を確保した。「勝鬨橋や永代橋は重厚な歴史を感じる橋なのに対して、こちらはシャープな形状にして開放的な外観を目指しました。
(左)外向きに開いたアーチリブが特徴的なデザイン(右)新素材・高張力鋼は後に道路橋示方書に登録された。
設計と機能としてのデザインが融合
 形式が決まると詳細設計に進む。ここで中心的な役割を担ったのが、2005年から約4年にわたって管理技術者を務めた浦田昌浩だ。鋼橋(または鋼の上部工)の経験が豊富だという浦田は「私に任せれば安心だと思っていただけたわけですから、技術者として嬉しく思いました」と語る。
 その浦田がスカウトしてチームに加えたという杉野亨は、現場対応や細かい調整を担った。「例えば景観デザイン室から付属設備などの提案があったときに、その取り付けが可能か、強度の問題はないかといったことを計算し、図面に起こすという作業をしていました」と自らの役割を説明する。
 そして、景観デザイン室で活躍したのが太田泰弘だ。彼は2008年に景観意匠検討委員会が立ち上がった時からチームに加わり、細かいディテールのデザインに携わった。「吊り金具をきれいに見せるようにしたり、ボルトを使わないようにしたり、維持管理にも配慮しつついろいろと工夫を凝らしました」
 もちろん、デザインは勝鬨橋など周辺の景観と調和したものでなければならないし、設計に無理を生じさせるわけにもいかない。杉野は「デザインチームとの連携が重要なポイントで、どこに課題がありどういう対応ができるのかを話し合って、一つ一つ解決させながら進めていきました」と語り、太田は「社内に設計とデザインの部門があって意見をぶつけ合うことができるのが当社の良さで、この連携によって良いものができるのです」と胸を張る。
 2009年に詳細設計は完了したが、これですべてが終わったわけではない。照明などのデザインや設計はこの時点ではまだ決まっておらず、そのほか工事を進める中で細かい調整が必要になることもあり、太田と杉野が中心となって対応した。
(左,中央)鉛直材と吊材で構造を支える(右)設計段階から維持管理に配慮したデザインを追求
埠頭で組み立てて海から船で橋を運ぶ
 築地大橋が人々の前に姿を現したのは2014年5月8日のことだった。デザインコンセプトが定められ予備設計が始まってから、いつしか10年もの歳月が流れていた。
 橋は巨大なフローティングクレーンに吊られ、船で運ばれてきた。隅田川は多くの船が行き交うので、航路の閉鎖時間を短くできるようにしたのだ。「何十もの部材を近くの埠頭で組み立てて、そこでクレーンに吊るしました。海上輸送のみで設置できるため公道を利用する必要がないので、橋梁メーカーにヒヤリングして通常よりサイズの大きい部材にしてもらいました」と喜多は説明する。
 それから橋面舗装などの上部仕上げ工事が行われ、2018年11月4日に築地大橋を含む築地~豊洲間が暫定開通となった。築地大橋は優れた技術と意匠が評価され、橋梁・鋼構造工学に関する優秀な業績に対して贈られる土木学会田中賞(作品部門)を受賞した。
(左)築地大橋は巨大クレーンで海から架けられた (右)完成した築地大橋、築地と豊洲の新市場を結ぶ
携わる人々の思いが橋をつくり上げた
 築地大橋をくぐり抜ける船舶は多い。水上バスなどを利用すれば誰でもそのシャープな姿を間近で見ることができ、国内外から訪れた観光客の歓声が響きわたる。
 もちろん橋を歩いて渡ることもできる。歩道はアーチリブの張り出しに合わせて緩やかな曲線になっていて、石材舗装が敷かれている。そこには「それまで当社が手がけた歩道では、この舗装材が割れているのをよく見かけていたんです。だから、100年後もきれいな道であり続けるために、 舗装材割れの防止対策を入念に行いました」という杉野の工夫がある。ただ機能的で美しい橋を架けるだけでなく、それが長く保たれるように、あらゆる部分に細心の配慮がなされているのだ。
 このプロジェクトを振り返って浦田は「日本初の仕様だったので、予算との兼ね合いにはしばしば悩まされました。しかし、技術面での苦労はそれほどありませんでしたね。優秀なスタッフが揃っていたので」と語る。「人に恵まれた環境だったから、こうして完成させられたんです」という喜多も同意見だ。「以前は不特定多数の受益者を幅広くカバーする橋梁をつくるべきだと考えていましたが、事業に携わる人々の思いが入るのも良いものだと思うようになりました」と続ける。細部にまで込められた彼らの思いはきっと、22世紀になっても訪れる人々に伝わることだろう。
完成した築地大橋で当時を振り返る浦田(左写真左)と太田(左写真右)、プロジェクト当初から参画した喜多(中央)と、杉野(右)
いつの時代も橋梁を通じて価値を創造
 学生時代から大きな橋の設計に携わりたいと思っていて大日本コンサルタントに就職した浦田は「橋梁技術者にとって、隅田川に橋を架けるのはひとつの夢みたいなものなんです」と言う。その夢の舞台において躍動した技術者たちは、これからの時代を見据えている。
 今は70万を超える橋の点検や補修・補強設計に携わっているという杉野は「これからはただ橋を整備するだけでなく、その地域の価値を高めていくことが求められるようになるでしょう」と見通しを述べ、「そういった提案ができる技術者を目指していきます」と抱負を語る。「自分で設計した橋を自分で直すというのをやってみたいですね。その橋のことは一番わかっているわけですから」という喜多も、自らの経験を生かした社会貢献を模索している。
 変わりゆく時代にあっても大日本ダイヤコンサルタントが誇る高い個人技とチームワークは変わることなく、社会に求められる価値を創造していくのだ。